自然主義的誤謬は「論理的な間違い」か

ここで言っている自然主義的誤謬は,ムーアの言う自然主義的誤謬ではなく,もっと広く「自然であることは良い(善い)ことだ」という議論に使われる方である。両者の違いはこの用語集でも参照のこと。また,この問題から,『科学技術をよく考える』では「自然さからの議論」という語を当てはめているが,却って分かりづらいので,本稿では自然主義的誤謬で通す。

というわけで,最近話題になった「自然主義的誤謬」である。まったくしょうもない話ではあるが,日本人間行動進化学会が自然主義的誤謬を「論理的な間違い」と言っていることに若干引っかかった。

というのも,「ダーウィンの進化論に対するメギンソンの見解は真である」「メギンソンの見解は日本国憲法にも適用できる」「日本国憲法は存続せねばならない(生き残らねばならない)」という前提を置けば,自民党の誤用例それ自体は「論理的に」成立する。

たいていの議論は,それを妥当にするような前提を置けば論理的になり得る。だから,「お前の言っていることは論理的ではない」という批判は,自然言語の世界ではさしたる威力を持たない。たいていの人間は,自分に都合の良い前提を採用して,ごく素朴な推論(反証が極めて容易であってもその可能性を検討しない推論)によって,自らの主張を「論理的なもの」にしている。だから,「お前は論理的ではない」と批判したところで,「この人は『論理』を正確に理解していない」と思われるだけである。

幸いにして,本件の場合は「メギンソンの見解は日本国憲法にも適用できる」という前提が明らかにおかしいことがわかる。進化論に関するいかなる見解も生物集団以外には適用できないからである。「進化論とそれに関連する見解は生物集団のみに有効である」というのは論理学の問題ではなく,生物学(進化学)の問題である。

(2020/10/2追記)
今更だが「論理」という言葉の意味を狭く取りすぎで,「生物学・進化学の『論理』では出て来ない」という意味において「論理的な間違い」なんだろうというのはわかっていても,こういうことを言いたくなるんである。

(2021/1/23追記)
Daily Life:生物学者は「自然主義的誤謬」概念をどう使ってきたか
私がのんきに流した言葉の問題は思っていたよりも深刻だった。